やまだ自ら怒りを生み出してた!?
先日、夫の実家で法事があり、夫だけが帰省することになりました。
親戚が集まるとわかっていたので、私はお土産を用意しました。
さて、この
「親戚が集まるとわかっていたので、私はお土産を用意しました」、
あなたはどう思います?
当たり前?
やらんでいいこと?
私は「自分が用意したのに用意したことにキレた」事態になりました(汗)。
なぜ自分の意思でやったことなのに、怒りがわいてきたのか?
その感情を引っ張って引っ張って、たどり着いた先に、長年自分を縛っていたものが見えてきました。
今日はそのことを書いてみます。
きっかけは「頼まれてもいないのに動いていた自分」だった

夫の実家に家族で帰省するとき。
親戚からお土産やお菓子をいただいたとき。
いつも私が、お返しの茶菓子を用意していました。
誰に頼まれたわけでも、夫に「買ってきて」と言われたわけでもない。
それなのに、なぜかそれが「私がやること」になっていました。
しかも今回は夫だけの帰省。
物理的に私は行かないのに、頭の中にはもう「お土産どうしよう」が浮かんでいた。
以前いただいていたから、早くお返しをしなければ。
ふと冷静になったら、ふつふつと怒りがわいてきたんです…。
「親戚が嫌い」なわけじゃない。じゃあ何?

整理してみると、親戚が嫌いというわけじゃない。
ではなぜこんなにしんどいのか。
気づいたのは、2つの重なりでした。
ひとつは、「嫁としてやらなきゃいけない気遣い」のしんどさ。
もうひとつは、「もらったら返さなきゃ」という見えない負担。
この2つがセットでずっと肩にのっかっていたんですよね。
気づかないまま、ずっと。
「これ、本当に私がやること?」と聞いてみた

そこで、自分に問いかけてみました。
これって、本当に私がやること?
夫の親戚の集まりなのだから、夫がやればいいんじゃない?
逆の立場を想像してみたら、もっとはっきりしました。
私の実家の法事に私が帰るとして、夫がお土産を気にしてくれるか?……気にしない、全く。
だけど私は怒らない。
じゃあなぜ、私がやる前提になっているんでしょう??
見えてきたのは「嫁の役割」という呪い

ここまで来て、やっと核心に気づきました。
無意識に「妻・嫁の役割」を背負っていたことに。
夫親戚付き合いの調整や実務は嫁の仕事、といった女性に負担しかない負の役割です。
誰にも頼まれていない。
夫は何も求めていない。
お返しの準備なんて言われて初めて「用意しないといけないの?」という夫側。
それなのに、私だけが「やらなきゃ」と動いていた。
親戚づきあいはそれぞれで、と夫婦間で決めていたはずなのに。
やまだ頭でわかっていても、しみ込んだ価値観を手放すのは簡単じゃないんだなぁ…
長年かけて内側に刷り込まれた「当たり前」は、意識だけじゃ簡単には消えてくれないんだと思い知る機会になりました。
何の呪いなの? 誰に怒られるの?

正直に言うと、「お土産を買わなかったら何かが起きる」という根拠は、どこにもないのです。
夫は何も言わない。
親戚は何も知らない。
私が用意しようがしまいが、誰も気にしていない可能性が高い。
それなのに、実態のないしがらみに縛られている。
何の呪いなんだろう、これ。
誰に怒られるわけでもないのに、勝手に「やらなきゃ」と走り出してしまう自分がいます。
新しいものが怖い心理と、たぶん同じ

この件で気づいたことがあります。
これって、変化を怖がる心理と同じ構造だなと。
たとえば「AIって怖い、使いたくない」という感覚。
新しいツールを受け入れるのに時間がかかる感覚。
あれも、「慣れているやり方を手放すのが怖い」という心理から来ているんですよね。
お土産を用意する私も、同じだったかもしれない。
「やらなくていい」とわかっていても、長年の習慣を手放すのが怖かっただけ。
変化への怖さは、悪いことでも、おかしいことでもない。
ただ、それに気づけると少し楽になれるよ、と自己対話をしています。
実際にやってみたこと

気づいたからには、動いてみようと思いました。
まず夫に宣言しました。
「今回で、夫の親戚関係のお土産の用意は最後にする」と。
それから、不祝儀袋の準備もしないことにしました。
夫から聞かれたら「いつもの場所にない?」と返すだけ。
探すのも、確認するのも、今日からは夫の仕事。
使う人が用意する。
小さなことだけど、私にとっては手放したい役割を手放す練習になりました。
やってみたら、罪悪感が出てきた

でも、正直に言います。
罪悪感、出ました。
「これでよかったのかな」「ちょっと冷たかったかな」
という気持ちがじわっと来ました(なかなか根深いですね)。
でも、立ち止まって考えてみたら、それは間違っているサインじゃなかった。
長年やってきたことをやめるとき、体がざわつくのは当然。
むしろそれは、役割を手放すリハビリ中の違和感なんだと思うことにしました。
痛みがあるから間違い、じゃない。
慣れない動きをしているから、ちょっと筋肉痛になっているだけなんだと。
我慢しなくていい。
自分を犠牲にしてまでいい人やらなくていい。
何度も自分にそう伝えます。
無意識の「当たり前」、それ、いる?

今回のことで、私が伝えたいのはシンプルなことです。
無意識にやっている「当たり前」は、一度立ち止まって見直していい。
「やらない選択」をしても、誰かが傷つくわけじゃない。
世界が終わるわけじゃない。
私は今、役割を手放すリハビリ中です。
まだぎこちないし、罪悪感もある。
でも少しずつ、「本当に私がやること」だけを選んでいきたいと今回の件で思ったのでした。
セルフ怒り、もう本当に不毛だしね(苦笑)。
おわりに
いかがでしたか?
今回は「お土産ひとつで気づいた、私を縛っていたもの」についてお伝えしました。
さくらさんたしかに思い当たることあるかも!
やまだ思い込みや慣習って怖いって思いました…
あなたが無意識にやっている「当たり前」は何ですか?
本当はやらなくていいこと、ありませんか?
頼まれてもいないのに、いつの間にか「自分の仕事」になっていることが、もしかしたらひとつくらいあるかもしれません。
それに気づくだけで、ちょっと肩が軽くなるかも。
今回の記事が同じように悩む方の解決のヒントになりましたら嬉しいです。
それではまた♪

